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令和7年より 「上瀧勇哲のホームスタジオ2」125リンク5300pを配信中です |
佐賀鍋島藩 牛島家より分家した牛島栄六と千代の物語
その 五人の子供は今 牛島 本家から歴史を探る
大和三郎丸 (上瀧勇哲)
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私の心の故郷は北九州市小倉守恒です
私は、旧小倉市守恒で生まれました。
それは母方の牛島栄六おじいちゃん、千代おばあちゃん、その息子達みんなが見守る中、生まれたのでした。
その生まれ育った優しい自然環境の中で、おじいちゃん、おばあちゃんに可愛がられた想い出は今でも時空を超えて蘇えることができます。
祖父、牛島栄六、その妻、千代は私の母ヨシエ(長女)、その下に4人の息子達が居ました。
家族が佐賀市から小倉市に移り住むまで色々なことがたくさんあったそうですが、そのことは後にして、まず私達三兄弟が牛島のおじいちゃん、おばあちゃんから凄く可愛がられたエピソードを紹介しながら、お話しを進めてまいります。
又、私が知らない事、知っておきたい事など、母や、五男の昭さん他、牛島家と関わった人々のお話しを、聞いた事などを整理してまとめてみました。
佐賀市神崎 牛島ご本家へ訪問
まず最初に、このテーマを書く前に、牛島ご本家、先祖が眠る佐賀市神崎のお墓参りをすることから始まります。
昭和56年の初夏に、母ヨシエと哲郎(弟)の三人で、牛島ご先祖さまのお墓参りと、お寺に、お参りして、ご親戚にもご挨拶したことがあります。
この時は何も分からず、ただ母について行っただけ。
そんな気持ちでしかありませんでした。しかし、記念写真を数枚撮っておいて良かった。
これが後々、牛島家の大きさを知ることになります。
平成19年3月4日、25年ぶりに佐賀市神崎のご本家となる牛島家のお墓参りをいたしました。
そのきっかけとなったのは一昨年、小林昭さん(母の弟)が、この地に来られ、牛島保さん、牛島博子さんとお会いして、母(ヨシエ)の法要として香典を頂いたことによる初めての訪問なのです。
今度は25年ぶりということ。
そして、その間一度もこの地に来たことがなかったこと。
しかも、上瀧家としてのお付き合いが全くありませんでしたから、小林昭さんから教えてもらった住所だけが頼りでした。そして洋子ちゃんと二人で行橋市を出発します。
今日は、洋子ちゃんのお母さんが買ってくれた新車のホンダライフ。
カーナビも付いていますから、住所登録をしてやればキッチリ案内してくれる!!
そう想っておりました。 そして現地まで3時間ごろで到着しました。
しかし、その家の周辺ということなんですが、分かりません。
近くを散歩する方に聞いて、やっと牛島保さん家に到着。
ご挨拶して、昭おじさんからの紹介で…… ことの経緯をお話し。
すると、すごーく感激してくれてご夫婦で、まずお寺さん、そしてお墓を案内してくれました。
しかし昔の面影はありませんでした。
以前のような立ちすくむ大きな石のお墓が無く、新しく整えた大きなお墓に案内されました。
手を合わせ、牛島のおじいちゃん、おばあちゃんのことを想いつめ、この地が爺ちゃんのご先祖様が生きてこられた場所、そう想うとちょっと感激して、心の中でおじいちゃん、おばあちゃんの顔が浮かんできました。
そのお寺には現在、住職は居なくて、坊守さんが守っていること。
その上で本殿にお参りし、代々の牛島家の納骨堂にも手を合わせます。
ちょっと想像と違った想いでしたけど、なぜかスーッと心地良さを感じ、おじいちゃん、おばあちゃんの顔が再び浮かんできます。
少しばかりの香典をご先祖さまにお供えして、坊守さんに「よろしくお願いします」とご挨拶を済ませました。
その後、保さんが、すぐそばの牛島ご本家である、牛島博子さん家に案内してもらえます。
すると前以て連絡頂いていたのでしょうか、ニコニコして迎えてくれた博子さんは60代そこらの奇麗な方です。ちょっとおじいちゃんに似た、面長の背の高い方です。
大きなお家の仏間に案内されて、ご先祖さまに、北九州牛島家を代表してお参りに来ました? そんなハートで手を合わせます。
洋子ちゃんもなぜか緊張しているようにも見えますけど、夫婦でお参りすることが一番、仏様、神様、ご先祖様がありがたいそうです。
すごーく気に入ってもらった牛島家の人々、帰りぎわ牛島博子さんが手作りした味噌をたくさん頂きました。こんなに貰ってと思うぐらい大歓迎された日でした。
これも牛島栄六おじいちゃんのおかげ。
母もきっと喜んでくれる、そんな心温まるひと時を過ごした日でした。
北九州市小倉、牛島家初孫として私が生まれる
私が生まれた地は小倉南区守恒です。
その当時の守恒は山並みに覆われた農村地で、人家がまばらな淋しいところでした。
その中でも特に山奥にあった牛島家は高さ100mほどの山地が三つ四つ連なる山奥で、その中の一つを開墾して農地を作ったのが、おじいちゃん家族でした。
その家族の中で生まれた私はすごーく大切に育てられた気がします。
その生いたちを簡単に紹介しますと
上瀧松義(父)が奉公した小倉南区守恒の島添畳店、ここで牛島ヨシエさんとお見合いをして結婚することになります。
新居は小倉北区三郎丸になりますが、初めての出産ということで実家の牛島家で療養しながら生むことになります。
そして、栄六おじいちゃん、千代おばあちゃん兄弟家族が見守る中、私が生まれます。
このときは数日前から大雪が降り積もり、猛吹雪の中、産婆さんが駆けつけ私を引きずり出した!! と何度も聞かされました。
上瀧家、牛島家の初孫となる私は、それはもう皆が大喜び。
紅白の餅をつくやら、近所、親戚集まって盛大なお祝いをしたそうです。
小倉牛島家のおいたち
私が小学校に通い始めたころの春休み、夏休み、冬休みはほとんどおじいちゃん家で過ごしたようです。
そのおじいちゃんの口癖は、若いとき海軍の将校さんで、軍艦「 」に乗船し、輝かしい戦歴があったと自慢します。
その戦艦「 」が係留していた佐世保港で終戦になり、生きながらえたそうです。
もちろん最後の決戦場となる沖縄戦に戦艦「大和」と、ともに出動したかったのですが、修理ドッグ中で行かれなかった、とか聞かされました。
ちなみに、沖縄本島を最後まで指揮されていた鹿児島県出身の牛島満、中将は、ご親戚筋にあたる方ではないかと思います。
ところで栄六おじいちゃん、千代おばあちゃんは佐賀県、前の鍋島藩の牛島○○の子孫で、分家にあたり、その牛島善七祖父の中でも7人兄弟の6番目だから、栄六と名付けられたそうです。
終戦後、佐賀県より北九州八幡製鉄所に入り、しばらくはこちらで生活していたのですが落ち着かず、小倉守恒の山を一つ買って、ここに移り住み、家を建て、山並みの盆地を利用して農業と酪農を始めます。
私が子供の頃は、広い山並みを利用して果物、野菜などを営み、この地域では商売上手で有名な方でした。
栄六おじいちゃんには5人の子供が居て、長女が私の母ヨシエ。
長男は善六。次男が亨。三男、博。四男が昭でした。
その子供達が皆で親父の加勢をする分けですが、戦後から間もない復興の時代でもあり、国民全てが皆貧乏で、一生懸命働くのが当たり前の時代でしたから、おじいちゃん、おばあちゃんは朝早くから、夜遅くまで働きます。
その姿を見ながら子供達も無我夢中になって働き、財産を築くことになります。
そんなとき母(ヨシエ)が近くに住む畳職人、上瀧松義(父)と見合いで結婚し、私がこの地で生まれたのです。
ちなみに、栄六おじいちゃん夫婦には11人の子供が生まれますが、一男、四女は幼くして亡くなり、そのお墓は古家を挟んだ通り向かいの山地に今でもあります。
私が育った昭和30年代の小倉守恒牛島家は
平成23年の夏盆、年に数度お墓参りをする分けですが、この地に来るたびに周辺の環境が変わっていることに気付きます。
それは時代と共に都市空間が増え、ドンドン街並が進化してゆくことです。
私が生まれ育ったこの地の面影は、このお墓と、向いにある、おじいちゃんの子供達が眠る森林が少しだけ残されています。
その他は全て家しかありません。
昔から唯一残された物は墓所しかありませんから、この地をベースにして昔の面影を再現できます。
その墓所がある私道から真っ直ぐ坂を登ると行き止まり。その下方は企救丘から志徳、志井がはるかに見えますが、本当はこの私道、山並みは二つほどの丘をくぐって志井方面に出る山道でもあったのです。
その墓所から上方向につながる左側斜面の平地にあった、大きなイグサ屋根の家が私が生まれた所。
その家に隣接する牛舎には6頭の乳牛。畑を耕す牛も2頭居たし、そのそばに養鶏舎二棟には500羽ぐらい居て実に賑やか。
そして墓所近くには、ブタ舎があり、50頭ほどの若ブタが、いつも私が与えるエサにブゥブゥ泣いていました。
警備の犬も居たし、ネコも居たから、動物はそれぞれの役割の中で、おじいちゃんがしっかり育て、朝早くから夜遅くまで動物の出産なんかで大変だったことを想い出します。
私達は良く、貝を小さく叩き割って、ニワトリのエサにするものを随分作ってやったこと。おじいちゃん、おじさん達から教えてもらってタマゴ取りを良くしたものです。
それと、住家から山並みの斜面を利用して、白菜、大根、人参、タマネギ、キュウリ、ナスビ、トマト、スイカ、ウリ、エンドウマメ等、この時代にあった野菜のほとんどが栽培されていました。
特に、初夏からのスイカ畑、トマト畑には、いつも自分勝手に腹一杯食べれた時でもありました。
又、果物として、ブドウ、ミカン、キンカン、イチジク、カキ等、出来るものはなんでも植えて商売していたようです。
夏休みに入ると、私達兄弟は決まっておじいちゃん家で泊まり込み、何もせず、ただ自然に浸った遊びの時間がたくさんありました。
朝起きると絞りたての牛乳が飲めるし、畑に出れば何でも取って食べれるものがふんだんにあり、畑下の権現池には魚捕り、ザリガニ捕り。
そばにある乳牛舎に行ったり、とにかく自然の中で飛び跳ねた幼少期がありました。
そのようなイグサ屋根の古家から、さらに奥地の山頂に新しい住家を築きます。
その新築した住いにも、まだオクドさんと言って、マキ木でご飯を炊いています。もちろん、風呂もマキ木で沸かして入りますけど、この頃からちょっとした鉄釡の風呂です。
古家の時は丸い五右衛門風呂と言って、全体が丸ーィ鉄釡で作られたもので、底から熱湯がたぎってきますから、丸い厚木を下に引いて、その上に乗ってから風呂に入っていました。
もちろん露天風呂です。新しい風呂は、ちょっと囲いがあって風呂場らしさがあり、女性でも安心して入れたようです。
それと一番良かったのが掘コタツ。
寒イときは、ここに潜り込んでいましたけど、炭火でしたから熱い思いを随分しましたし、皆で囲んでお食事をしていました。
そんなとき焼酎を飲んだおじいちゃんが気分良く「自分は昔…… 」の偉い話しを良く聞かされました。
そのお話のついでに、牛島家代々に継がれる刀。ヤリ。種子島鉄砲。軍刀を床の間に飾り、その上の写真には、戦争に出兵したおじいちゃん兄弟や祖父、親戚の人々、ちょんまげスタイルの武士の格好をしていた方も居ましたから、ご先祖さまの有り様が一目で分かりました。
小倉牛島家の後継者
私が小学校高学年から中学、高校に進む頃、母ヨシエは肺結核で入院することが多くなりました。
無理して退院しても、又、悪化して再入院することが続きます。
そんな折、段々と牛島家との繋がりが細くなってきます。
それは経営していた酪農事業が国際化によって安上がりな乳牛が増えてきたこと。又、農業も大規模栽培とかJA、あるいは交通網から物流経済が盛んになり、安価なものが大量に市場に出回る時代となり、個人が多品種作って商売するのが困難になってきたからです。
又、外国から安価な農作物がドンドン入ってくるようになります。
それで、おじいちゃんも、これまでのように経営がうまくなれないことで、少しずつ事業を細めていくことになります。
そのようなとき長男の善六さんが結婚されます。しかし、数年後に奥様が亡くなります。
その後もう一度、結婚されましたが子供はできませんでした。
次男の亨さんも、おじいちゃんの肝入りで結婚します。
そして友行が生まれます。この子を牛島家の跡継ぎにすることになり、おじいちゃんは随分この子を可愛がります。
しかし、奥様が理由もなく立ち去られます。
その後もう一度、亨さんは再婚されます。
このとき子持ちでは具合が悪いからとの事で「友行」を上瀧家の養子にしてしまいます。その後、亨さんに二人の女の子が生まれました。
この頃までは元気だったおじいちゃんでしたが、昭和41年5月7日、肝臓ガンで亡くなります。65才でした。
小倉牛島家の壊滅
牛島栄六おじいちゃん、千代おばあちゃんには5人の子供が居ます。その中で長女ヨシエは上瀧家に嫁ぎます。
長男、善六は父の事業を諦め、門司の北九州港運に勤めはじめ、勤めで知り合ったミツエさんと結婚します。しかしその奥様、昭和44年10月4日亡くなりました。
その後、再婚されますが子供は出来ませんでした。そして昭和50年10月22日、職業病ともいわれる病気で亡くなります、48才でした。
次男、亨さんは最初にできた友行を上瀧家に預け、再婚されます。奇麗で美しい方だったと思いますけど、二人の女の子が出来ました。
栄六おじいちゃんは、さぞ嬉しかったと思いますけど、生まれたばかりの女の子を見て亡くなります。そして亨おじさんも、まさかの病気で亡くなります。昭和47年6月17日、まだ43才の若さです。
三男、寛さんは熊本の牛島家に養子に行かされます。名古屋の㈱富士通に勤め、定年で現在、熊本市におられます。
四男、昭さんは門司海上保安学校を卒業して、神戸商船大学に入り船員となりました。
その後、栄六おじいちゃんの肝入りで小林家に養子縁組されます。
そして三男、三女の6人の子供が生まれました。小倉でお元気にお過ごしです。
栄六おじいちゃんの子供達がそれぞれにバラバラになったのは、みんな栄六おじいちゃんの責任によるものです。
正直申し上げると、亨さんの血縁者である友行は、この地より去りました。又、二人の女の子は母方に引き取られて消息が途絶えています。
長男に子供は居ない。
三男、四男は養子ということで牛島家を継ぐ者は誰も居ない状況となります。
小倉牛島家のお墓を守る
これまでのストーリーは、私の知る限りのものです。私が見て、触れて、体験したことばかりを正直に紹介してみました。
もっと本筋があるのかも知れませんが、牛島家の人々と関わった大切なエビソートを考えつくまま書いてみました。
その中で、もっと何かを知りたい、私の知らなかった栄六おじいちゃんのこと、千代おばあちゃんのこと、そして佐賀ご本家筋との繋がりも含めて、その時代をどう生きてきたのかを知ってみたい気もします。
それでも一生懸命生きてきた小倉、牛島家の人々と私達は、たくさんの愛情を頂き、それが今こうして繋がっていることに感謝しています。
その上でご先祖さまを大切にする気持ち、想いを、これからの私達家族、親戚、皆で守りたいと想います。
私の従兄にあたる益田勝義さんは毎月、おじいちゃんのお墓に豪華なお花を供えてくれます。
血縁者でもないのに、なぜかしらと思うのですが、それは私達家族同様に益田家の人々にも、おじいちゃんが親切にお付き合いしたことから繋がっています。
商売上手な栄六おじいちゃんでしたけど、子供の私達にはすごく優しかった人です。そんな想いを益田勝義さんは持っているのでしょう。
益田勝義さんについては、益田家のサイトでお話ししますが、牛島家に関わる人々は決して私だけではありません。
後継者が居なくても私達が見守る。
そのようなハートで小倉、牛島家を優しく見届けたいと思います。
1950~60年ごろの小倉守恒、牛島家の景観
私がこの稿で何が言いたいか? それは子供の頃の守恒の景観なのです。
なだらかな斜高地から上池、下池に繋がる畑には牛島家の人々が手作りした、たくさんな野菜が四季折々に青々と育ちます。特にスイカ畑、ウリ畑、トマト畑、それに白菜や大根、タマネギ等が次々に出来て、辺り一面、緑に覆われています。
そして斜面下にある湧き水から池に注がれる山水にトマトやスイカ、ウリを入れて冷やしてくれる優しいおばあちゃん。
その山水が流れ落ちる先が権現池。
小、中学校の運動場が二つほど入る池で、その上にもう一つ上池があり、こちらはもっと大きく、深く、水がいつも奇麗。
それだけ自然豊かな山並みから注がれた、山水が溜まるのでしょう。又、上池から奥地の山並には牧場がありました。
牛島家のおじいちゃんの山と隔てた斜面には、いつも10数頭の牛が緑を食べ「モゥー」と鳴いていましたし、権現池そばの乳舎とか牛小屋は池を挟んでけっこう賑やかでした。
そして斜面地そばにある湧き水から小さな滝となり、お風呂場ぐらいの溜池がありました。
その水があふれて小川を形成し、下池に注がれています。
その溜池に、ヤモリ、イモリ、ちいさなサンショウウオも居たと思います。
それだけ奇麗な山水を私達は飲み水として頂いていました。
それに、おじさん達がいつもその溜池にスイカ、ウリ、トマトを入れてオヤツ代わりに食べていましたから、いつ行っても、これらのものが浮いています。そのような景観と下池のフナ釣り、ザリガニ取り、シラスウナギも紫川からここまで登ってくるからウナギ捕りも得意なおじさん達も、この池で遊んでいました。
そのような自然が一杯の守恒の景観が、今から50~60年前にあったことを知ってほしいのです。そして、おじいちゃんが特に可愛がった乳牛やニワトリ、ブタ等の関わりは、生きることの大切さと、命の尊さを子供ながらも実体験したことなのです。
私達が幸福になれることは、たくさんの多くの人々から支えられていることを知り、大人になり、社会に出て、恩返しできることこそ、おじいちゃん、おばあちゃん、そして牛島家ご先祖の皆様に御恩報謝することなのです。
この稿は、昔のことを想い出しながら、子供のイメージで書いてみました。特に小倉守恒、牛島家の景観では、子供の視点で見つめています。
現在の小倉守恒には一つも昔の景観は残されていませんが、時代の流れの中で、私が知る部分をここに記し、その地域に住む人々に感動を与えられたらの願いです。
最後まで読んでくれて大変ありがとうございます。
ご親戚の皆様には、何か心の中で響いてくれるものがありましたら幸です。
尚、この稿について何かありましたら、ぜひお便りをお寄せ下さい。
必ずご返事いたします。
2012.4.1. 再修正しました 大和三郎丸(上瀧勇哲)
北九州市小倉 牛島家
先祖代々親族・縁族一切之霊 北九州小倉 牛島家 過去帳・資料より製作 2016.10
◎祖々父 牛島 為七 禪玄門居士 (1937)昭和12年12月5日亡 80才 (1857生)
◎祖々母 牛島 ナカ 延壽善女位 (1945)昭和20年10月10日亡 80才 (1865生)
◎祖父 牛島 栄六 諦盈栄道信士 (1966)昭和41年5月7日亡 65才 (1901生)
◎祖母 牛島 チヨ (1981)昭和56年2月27日亡 76才 (1905生)
長女 上瀧よしえ 釋尼慈光 (2005)平成16年7月12日亡 80才 (1925生)
(北九州・行橋市、上瀧松義と結婚、三人の男子)
◎長男 牛島 善六 比古命御霊 (1975)昭和50年10月22日亡 48才 (1927生) (子供ができなかった)
◎〃の妻 ミツエ 釋玅佳善女位 (1969)昭和44年10月4日亡 43才 (1926生)
◎次男 牛島 亨 比古命御霊 (1972)昭和47年6月17日亡 43才 (1929生) (男子・友行、二人の女の子、何れも不明)
三男 牛島 寛 (2012)平成24年4月15日亡 81才 (1931生)
(熊本、牛島家へ養子→名古屋へ、二人の男子)
四男 小林 昭 現存 80才 (1936生)
(北九州小倉、小林家へ養子、三男三女の子)
牛島 政子 圓一明孩女 (1938)昭和13年5月7日亡 2才 (1936生)
牛島ミエ子 釋尼見範童女 (1939)昭和14年3月19日亡 1才 (1938生)
牛島ハツエ 釋玅栄童女位 (1946)昭和21年2月1日亡 7才 (1939生)
五男 牛島 勝 釋晃勝童子 (1944)昭和19年12月21日亡 1才 (1943生)
牛島 洋子 釋玅善童女 (1949)昭和24年4月11日亡 1才 (1948生)
◎は、牛島家の墓に入っている親族
平成28年9月18日、牛島家、親族・縁族一切之霊・法事を、牛島栄六・チヨの子、昭さんを施主に於いて(行橋市宮の杜)上瀧哲郎家で、正山寺・生土昌行ご院家様により、牛島家・法事を行う
小林 昭さん監修より、北九州小倉 牛島家 過去帳・資料より一覧表・製作
上瀧勇哲
(北九州小倉牛島家 資料、一覧表は牛島栄六の孫、家族に配布しました)
牛島家の法事 |
拝啓 秋らしい季節になりましたこの頃ですが、皆様お変わりありませんか、お伺い申し上げます。
さて、先日の9月18日、牛島家の法要を、弟の上瀧哲郎さん家(行橋市宮の杜)に於いて、行橋市今川、正山寺さん、浄土真宗本願寺派、生土昌行さまのお念仏により行いました。
牛島家とは私の母、上瀧よしえ(旧姓 牛島よしえ)の、北九州市小倉、牛島家のご先祖様のことで、曾祖父、牛島為七、ナカさんの親族となります。
その方の子、牛島栄六、チヨさんが私、母方のおじいちゃんとなる方で、昭和の時代、小倉守恒に住いを構え、この家で、最初の初孫として生まれたのが私です。
詳しく申し上げると、牛島栄六おじいちゃんは曾祖父、為七の6番目の子供となりますが、ご本家は佐賀市です。
その中で栄六おじいちゃんは10人の子供が生まれ、5人の子は幼少のとき亡くなりましたが、長女の牛島よしえ、が私の母です。
ここでは小倉、牛島家のお話しをさせて頂きます。長男は善六さん。次男は亨さん。三男が寛さん、この方は熊本市の牛島家へ養子となりました。四男の昭さんは小倉、小林家に養子に行かれましたので、長男の善六さんが小倉、牛島家を継ぐ立場になりましたが、残念なことに初婚のミツエさんに子供がなく、再婚された方にも子供ができなかった、そして48才で去りました。
次男の亨さんは、牛島家を継ぐ友行が生まれましたが、複雑な事情に於かれまして、10代のころより行方知れずです。
亨さんは再婚されて二人の可愛い女の子が生まれ、3才と4才のころ、43才の若さでお亡くなりになり、その後、二人の女の子とは離縁となり、その後の消息は分かりません。
その事で小倉、牛島家を継ぐ方はいません。しかし、私達兄弟や孫が遊んだ小倉守恒の丘に、牛島家の墓があります。その隣りに上瀧家の墓を置かせてもらっています。
その墓所を代々守って行くことを、栄六おじいちゃんの遺言として、孫にあたる熊本、牛島家、小林家、上瀧家の孫達が集まって、栄六おじいちゃん50回忌、チヨおばあちゃん37回忌を合わせて、北九州小倉、牛島家の法要を行いました。
小倉、牛島家のご本家は佐賀市にありますが、ご本家のお墓参りを32年前、母と行きました。高さ4.3mの石墓に牛島家代々とありました。
その後の訪問では、ご本家様に、ご案内され、新しい今風の墓にお参りしました。その後、お寺参りをし、本家では優しい、おもてなしを妻と一緒に頂いたこと。
そして牛島家の元となる家系は龍造寺隆信から続く鍋島藩、牛島家泰の遠縁となり、元がある佐賀市の牛島家の家屋が歴史資料館になり一般公開されている事など教えていただきました。
詳しくはホームページ、上瀧勇哲のホームスタジオから「牛島家」で紹介しています。
牛島栄六、千代さんの法事で、お念仏を頂いている生土昌行様が私達にお説経をされます。今、私が生きていることは、父、母があり、その祖父母があり、たくさんの親族で私達は生かされています。
その感謝の念が法事、法要であり、心の支えが、たくさんの人々に伝えられることを、もう一度感謝し、手を合わせる大切さを教えて頂きました。
今年も福岡県みやこ町でとれた「夢つくし」を贈ります。お米を作っている、みやこ町の進さんは江戸時代から続く庄屋さんで「代議士をしていた時代もあったんよ」と、進おばあちゃんは、今、一人暮らし。それで、我が家に数度、お食事会に来ましたね。
楽しい進おばあちゃんは、趣味のようなお店を持っていて、この町で名前を知らない方はいないぐらい自負します。
その家系の方が、山並みから注ぐ清水と、赤土で作付けした稲穂が「夢つくし」なのですね。
初秋に刈った稲地に菊の花を大量に植え、正月から春に菊の花を道の駅やJA農協などで販売し、再び5月に田植えをすることで「赤土がすごく肥えているのですよ」と、米と菊花、農家を兼業している、進 政夫さんのお話しです。
私達は日々、たくさんの人々とコミュニケーションしながら毎日を楽しんでいますが、健康で何不自由なく過ごせることが、いかに凄いことか、身を持って体験できています。
そのような私達ですが、パワーが残っていれば、今の若者を育てるとか、頑張ってもらえることを、サポートしている私達夫婦です。みなさん、身体が資本です、ご自愛下さい。 敬具
2016.10.
北九州市小倉、牛島栄六(祖父) 孫 家族の皆様へ
拝啓 毎日が暑い夏季も、やっと秋を迎える季節になりました、この頃ですが、皆様、お変わりありませんか、お伺い申し上げます。
さて、リオ・オリンピック真っ盛りのお盆に、身近な、ご親戚皆様とお会いでき、ささやかな、お話しができました。会話することの多くは、やはり昔話ばかりですが、こうして元気な笑顔が見られ、これからも社会で、まだまだ活躍できることを互いに誓い合い、家族を幸せにしながら「又、会いましょうね」そんなコミュニティーがありました。
さて、私達は牛島栄六、チヨさんから繋がっている親族であり、小倉守恒には、そのお墓があります。その、お墓、隣に上瀧家のお墓を置かせてもらっていることを感謝しながら、年5~6度のお墓参りを三兄弟が入れ代わり、させてもらっています。
又、小林 昭様、その家族皆様がお参りしてくれて、いつもお花が絶えません。そして益田家の皆さんも、わざわざ遠くから、お参りしてもらったりで、栄六おじいちゃん、チヨおばあちゃん、そしてご一緒に眠っている親族皆様も喜んでいてくれると想います。
そのような牛島家を継ぐ後継者はいませんが、孫の私達が小倉、牛島家を永久に守ることをお願いします。
私は66才となり、栄六、チヨ、おじいちゃんの最初の初孫として現在の牛島家墓所がある、そばの茅葺家から生まれました。
私がどのように誕生したかは、ホームページ「上瀧家のルーツを探す」と「牛島家」のページをご覧下さい。
私が知る限りの事、栄六おじいちゃんや父、母、4人の叔父さんから聞いたことを書いています。
その上で今年は牛島家の法事をしたい!! ことを、前々から決めていましたが、先日、小林 昭おじさんと相談して、下記のように、ご案内することになりました。
申し分けありませんが、上瀧家の仏壇に牛島栄六おじいちゃんと、チヨおばあちゃんの位牌を置き、浄土真宗本願寺派、行橋市、正山寺住職、生土昌行様が、お念仏、お経をあげるだけの簡素な法要でいたします。
その後、上瀧家が年5度、法事をしているスタイルの、家族でする、お食事会を生土昌行ご院家様と共にいたします。
ここまでの法事を3時間ほど、ご一緒に、できたら幸せです。
尚、お布施とか会費は一切頂きません。又、お返しなどの準備は、しませんので、普段着で訪問頂くようお願い致します。
その上で、ご参加いただける方は、簡素な食事の準備がありますので、人数などお知らせ下さい。
重ねて申し上げます。ご家族皆様で訪問頂き、この機会に顔が見られたら、お話しができたらイイナァー♡ そんな法事です。 敬具
文責 上瀧勇哲
小倉、牛島家の法事、ご案内
◎と き 平成28年9月18日(日曜日)
◎ところ 福岡県行橋市宮の杜39-4 上瀧哲郎(次男)家でします。
℡0930-24-1649
◎時 間 午前10時30分から
行橋市中川、正山寺住職 生土昌行様の、お経が三回に分けて90分あります。
◎お食事、賄い役… その後、ささやかなお食事会を皆様と共にいたします。
上瀧周作(三男)がいたします。
福岡県京都郡みやこ町勝山上田950-1
℡0930-32-3723
◎ご案内状、人数などの役… 上瀧勇哲(長男)
※法事の内容、質問などありましたら遠慮なく問い合わせ下さい。
行橋市元永247-4
℡0930-24-0199
◎施 主 小林 昭 (旧 牛島 昭)
北九州市小倉南区葛原本町4丁目2-3
℡093-471-3931