1975.1.30. 洋子ちゃんのお腹から生まれた裕美ちゃん♡ 誕生からのお話し |
恋愛して結婚。,双方の家族に支えられ、二人の人生がスタート, 1974.3.18
私22才、若松の会社に勤めて4年になります。洋子ちゃん17才、彼女のお兄さんと釣りに行くようになり知りあった洋子ちゃん。二人の出会いはお兄さんがきっかけ。
二年間、相応の家族兄弟ともお付き合いしながら青春時代を過ごした私達は若松で結婚式をあげました。
私達の住まいは会社の社宅、といっても、市営アパートよりも広くて、奇麗な鉄筋4F建てアパートの2F、3LDKが住まいです。
そのアパートは会社と隣り合わせのように近いので少しネックがあります。
それは、当時の北九州市若松は公害の街であり、特に洞海湾とか若戸大橋奥の八幡は重工業地帯で有名な製鉄所が多くあり、その煙突からオールナイトで黒煙がモクモクと上がり、空をこげ茶色に染めていた時代でした。
それに洞海湾と隣り合わせの会社とアパートは、ヘドロ海の悪臭が毎日漂い、空気も、空も、海も、青さが全くない、スモッグの公害都市でした。
そのアパートに住いを構え、そこからわずか2~3分の会社へ、通勤する生活が10年続きました。
奇麗な洋子ちゃん を 自慢する父母 1974.4.
まだ19才になったばかりの洋子ちゃんですが、しばらく会社勤めをして、子供が出来たら退職ということにして、夫婦で共稼ぎとします。
新婚旅行を終えて小倉の実家に帰ると、父母が精一杯の結婚祝いを開いてくれました。
結婚式に招待できなかった親戚、ご近所、父の仕事仲間の皆さんが、大勢でお祝いをしてくれました。
そして母が洋子ちゃんを連れて、ご近所の挨拶まわりです。
「この子が長男の嫁です!!」と、自慢して回ります。
すごーく奇麗な洋子ちゃんを、皆が驚いて
「上瀧さん、良かったねェー!!」 と、ますます父、母が自慢するのですね。
長女 ユーミン (裕美)ちゃん 誕生 1975.1.30
新婚生活が始まり、相変わらず釣りキチの私ですが、6月ごろ、ちょっと洋子ちゃんの異変に気付き、洋子ちゃんのお母さん、おじいちゃんが、若松区内の倉内産婦人科に検診するよう勧められ行くと、妊娠3ヶ月。
どうもハネムーンベビーだそうです?
それでも、彼女は9月末まで会社に通いました。
大きなお腹で、ちょくちょく病院とか、赤島の実家に帰っていましたけど、彼女を見る多くの人が言います。
「子供が子供を産みよる!! 」とか。
それだけ愛らしい洋子ちゃんでした。
そして出産予定日が近づいてきますけど、中々陣痛がないのです。
初めての子、若いから?なのでしょうか。
それで倉内産婦人科と相談して、注射で陣痛を起こし、出産させる方法をとりました。
入院して1週間ごろ陣痛が始まり、半日苦しんでユーミンが生まれます。
(すいません表現が悪くて、本当は大変だったんですよね)
ユーミンは3200g。ちょうど良いサイズ?で無事、なにごともなく退院できました。
もちろん上瀧家、浦本家にとっても初孫ですから、大勢の人々から祝福されました。
裕美の命名は私達で決めた 1974.10ごろ
お腹を大きくした洋子ちゃんと、夕ご飯食べに浦本家に行きます。
浦本家には、寿おじいちゃんが、たくさんの本を持っていて、その中から命名の本を借り、二人で考えます。
私は“ゆみ”の響きが、すごく好きですから、女の子だったら“ゆみ”にしたいのです。
洋子ちゃんは普通の名前で、上瀧が難しいから、下は優しい名前がイイので、すんなり決まります。
後は字画で裕美(ゆみ)の漢字で決定しました。
寿おじいちゃんのアドバイスもありましたけど、裕美(ゆみ)ですんなり決まり、男子だったら○○と決めていましたから、女の子で良かった。
その後、命名を寿おじいちゃんが、楷書で書いてもらいました。
1ヶ月後、近くの若松恵比須神社にお参り。
それと家に、みんな招待。父母、親戚みな集まってお祝いパーティです。
アパートでしたけど、6畳が二間続き、台所もオープンされていたからなんとかなりました。
初孫のユーミンは、目が二重で鼻立ちも良く、二人のイイところを全部取った美女と、皆から言われました。
初孫のユーミン(裕美)は、やんちゃ娘に甘えん坊 1976~78
上瀧家にとっては初めての女の子。
男ばかりの兄弟に、孫が美女なら、父、母は尚更、当然甘やかし?
実家に帰ると、やっぱし母は、近所に妻とカワイイ裕美ちゃんを連れてまわり、アッチこっちで自慢するのです。
夏祭りや盆踊りでも孫を可愛がりすぎ!!。
それで私がいつもヤキモチやいて、裕美を怒りまくるのですね。
浦本家に行くと、さらに親、兄ともども甘やかしてくれます。
それに寿おじいちゃん特製の、すき焼きとかステーキなど、家で食べれない高級品の御馳走がいつもテーブルに並びます。
それに英二兄さんは裕美が大好きで、すごく可愛がるから余計に裕美が甘えるのです。
ですから、相手にされない私は、この家に来ると隅っこの方で泣いています?
裕美ちゃん 西野 寿 爺ちゃん、英二兄ちゃんと 浜町幼稚園に入園式 1979.4.5.
住いのアパート前の広い通り、そばに浜町幼稚園があります。
その園に行くことになった裕美ちゃん。
入園式当日は平日ですが、寿おじいちゃんが親代わり?で、運転手の浦本英二兄さんが迎えに来てくれ、洋子ちゃんは礼装で式典へ出席しました。
幼稚園の制服、帽子、カバン等そろえての入園式は、さすが若松区一の、人気園だけあり、大勢でした。
寿おじいちゃんが手続きなど、全てしてくれたそうです。
私やツタエお母さんはお仕事、英二兄さんは夜勤明けでしたから、すごくきつかったかも知れません。
それでも、キッチリ写真を撮ってくれました。ありがとうございます。
これより2年間、洋子ちゃんと裕美ちゃんが、幼稚園を通して、たくさんの社会勉強することになり、
お友達関係をここで築くことになりました。
洋子ちゃんママと 裕美ちゃんの 浜町幼稚園 時代 1979~81
4才で入園したユーミンは2年保育です。
この時代のユーミンは1人子で、みんなから甘やかされ、チヤホヤされて可愛がられます。
もっとも美人顔のユーミンは、誰からでもモテ、モテでした。
伸び伸び育てる洋子ママは、違ったところで苦労していました。
入園当初、先生にかみつき「家に帰らせろー!! 」と言って、ずいぶん先生を困らせた裕美ちゃん。
でも、少しずつお友達が出来、なんとか園に慣れてゆきます。
又、アパート前の公園でも、女の子ばかりの和に入り、すっかりとけ込んでゆく姿にホッとするママでした。
それで洋子ママに言います。
「ママも少しご近所付き合いしてョ!! 」
洋子ちゃんママは人見知りするので、いつも家に閉じこもりなんです。
それで窓からユーミンを見ています。
そんな2年間も、アッという間に過ぎ、洋子ママは再び妊娠しました。
長男、真一が4000gで生まれる 1980.6.10.
毎日元気に幼稚園に通うユーミンに、ときどき付き添っている洋子ママの、お腹が大きくなってきます。
二人目の子は、やっぱり西野 寿おじいちゃんが、声かけした倉内産婦人科です。
今度は、しっかり陣痛があり、出産できましたが、4㎏もある大きな男の子でした。
その赤ちゃんは、頭デッカチで怖顔。
それがママの母乳を吸うので、気色悪い!! と、ママが言います。
仕事で、出産に立ち会われなかった私に代わり、ツタエお母さんが優しく見守ってくれました。
一週間ほどで退院し、しばらく浦本家で私達は、お世話になります。
命名は寿おじいちゃんから借りた本で、上瀧が難しい漢字なので、名字は優しい方がイイ。
しかも字画などを気にして、真一としました。
いずれも上瀧家の跡取り息子なので、親戚家族が我が家に押しかけ、お祝いをします。
生まれて1ヶ月後に相応の家族で、若松恵比須神社にお参りします。
洋子ママはワンピース姿で、みんなから、若いママに二人の子供、信じられないそうです。
一年後の5月5日、初節句で再びお祝。
親戚皆が来てくれ、夕方まで賑やか。
そんな中で真一がママのお乳を遠慮なく吸いまくるので、少々ヤキモチを焼く私。
お祝の行事として、若松駅前の和菓子店「光月堂」の、鯉の和菓子をセットにして、10数件の親戚に贈りました。
活発な裕美ちゃん 浜町小学校に入学します 1981.4.5.
アパートから徒歩で10分ほどの浜町小学校へ、お友達と通うユーミンはすごーく楽しそうです。
洋子ママは二人の子育てが大変で、しかもお昼休みに帰ってくる私の昼食とか、近くに勤める浦本英二兄さんも、ここで昼食するから、けっこう忙しいのです。
しかし、こんな生活が2年あり、英二さんは新若松機械製作所に勤める千代美さんと結婚することになりました。
それと、私達を結んでくれた、寿おじいちゃんは、真一が生まれた次の年に亡くなります。
私達のライフスタイルは、親戚間の交遊とか、色々なお付き合いのところで、様々な変化が起こり始めます。
それでも私が趣味にする、お魚釣りクラブのお付き合いは、ファミリーフィッシングができるので、裕美はけっこう、こちらの方でも楽しめたはず。
まだ真一は2~3才。
仕事も、ライフスタイルも、すごく忙しい時代でもありました。
子育てを始めた 北九州市若松区浜町、その工場街 1975~1984
吉田印刷社宅アパート4階建て、2棟、32軒は、けっこう若い夫婦が住んでいます。
まだエアコンが普及されてない時代でしたから、夏場は窓を開け、扇風機だけの生活です。
そして灯油ストーブは、ほとんど使っていません。
鉄筋の2Fは、けっこう温かいのです。
そんな室に、夏場は煤煙が入り込み、畳はザラザラ。
空は工場のスモッグで灰色です。
洗濯物は薄茶色に染まることもありました。
そして洞海湾から入ってくる海風は、ヘドロの臭いが辺り一面にたち込め、住んでいる人々の悩みの種でした。
しかし、こんな近代的なアパートの家賃が、社員は3000円なんですよ。
一般から入居する人は、会社とお付き合いの度合いによって1.5万円~2.5万円も差があるそうです。
そんな会社の基本ベースが、社員に早く独立させる。
家を持たせることを考えています。
念願の一戸建て、若松から北九州市小倉南区志井へ引越し 1984~2000.7.
そろそろ私も30代、自分の持ち家がほしくなり、1年ほどかけて、あっちこっちの古家とか、マンション等を探していましたが、数千万もする価格に驚いています。
そんなとき、北九州中央情報センターの特安物件が目にとまり、早速、家族で見に行って決断します。
しかし、お金がありませんから、家中のお金をカキ集め、住宅金融公庫でローンを組みました。
築14年の一戸建ては小倉南区志井。
来年開業の北九州都市モノレール志井駅には、徒歩5分の便利の良さです。
洋子の兄、英二兄さんが会社の大型クレーン付きトラックを持ち込んでくれ引越しできました。
兄弟、親戚、釣り仲間で加勢してくれて、安上がりな引越しができました。
やっとイイ環境で子育てが出来る。
と思いましたが、ここから若松の会社、通勤に1時間かかりますから、洋子ちゃんは朝5時30分に起きて弁当作り。
私は、6時20分に家を出ると、会社に7時30分着です。
会社の始業が8時15分ですから、かなり時間がありますので、その間は色々あって、原稿書きもしていました。
小倉南区志井では、歩いて25分ほどの志井小学校へ裕美ちゃん、通います。
まだ4年生。
次の春には真一が近くの志徳幼稚園(2年保育)に通園するようになり、洋子ママは志徳団地そばの、もりかわ園という、お茶屋さんにアルバイトに、行くようになり、4人家族それぞれ活動が始まりました。
洋子ママの子育て日記 裕美ちゃん 編 パート1 長女、裕美ちゃんの誕生から浜町幼稚園 1975.1.30.~1981.3. 会社のアパート2Fで3室ありますが、裕美が生まれて、しばらくは、裕美を真ん中にして私達夫婦が寝ています。 しかし、やはり赤ちゃんの泣き声が毎日続きますと、夫が寝られませんし、夜遅くまで残業し、帰る夫を気にして、裕美と私はWベットのある隣室へ寝ることにします。 正直、まだ子供を可愛がるとか、思いやる気持ちを夫があまり持ってないような気がして、私が一人で育てているような雰囲気なんですね。 週末は、ほとんど魚釣りで居ない夫です。 そんな夫でも、たまには好きな魚釣りに裕美と一緒に行くのです。 まだ歩きもできない子供と一緒に、釣りに行くところは関門海峡、門司です。 もちろん車の中から竿を見ているだけです。 ヨチヨチ、ハイハイするころにると、兄や夫の兄弟が、しょっちゅう我が家を寝グラにしてマージャンを始めます。 この頃は釣りに行くよりマージャンをしていることが増え、裕美ちゃんがその麻雀パイをかき回して賑わしてくれます。 この頃が一番楽しかった頃?かも知れません。 ヨチヨチ歩きを始めた2~3才のころの裕美ちゃんは、親戚、兄弟、主人の釣り仲間みんなから可愛がられ、ヤンチャでわがままな子でした。 それでも私と裕美は二人でいつも一緒です。 お風呂は夫が入れてくれますけど、残業で遅くなったときは私と一緒にお風呂に入り、奇麗にして遊んでやります。 そして4才になってすぐに、浜町幼稚園に入園しました。 この頃から少しずつ会社、アパートのお友達とお付き合いが増え、又、裕美と一緒に買い物に行ったり、自転車の後ろに裕美を乗せて、けっこう遊んでいました。 この頃は西野 寿おじいちゃん、お母さんと、あっちこっち日帰り旅行をしましたが、数度、泊りで山口県の萩観光に車で行ったこともあります。 又、5月のウイーク日に家族3人で壱岐の釣り旅行もしました。 とにかく、お魚釣りだけは欠かさず、ファミリーフィッシングに、英二兄さんや主人の弟達も一緒の釣りでしたから、裕美もけっこう楽しんでいました。 裕美ちゃんの 浜町小学校 時代 1981.4.~1984.4. 裕美ちゃんが生まれ、真一が生まれるとき、そして入園式や入学式、卒園式など、子供の行事については、ほとんど人に任せっぱなしの主人。 ちょっと不信感を抱いている私ですが、主人の会社が忙しい、残業が多い、しかも会社の中堅社員として責任がある立場なので仕方ないか? とも思っています。 それにしても大事な時に主人が居なくて、全て私に任せっぱなしには少々カチーンときます? それでも、それだけ私に責任がある分けで、子育てに専念しています。 裕美が歩いて10分の浜町小学校に通い、私は生まれて間もない長男の真一を育ててゆかねばならないし、主人が毎日お昼に帰って来て、一緒のお食事をしますから、一応に淋しくはないし、子育てに、ある意味、安心して出来ます。 それに、この頃は同じアパートに住む同年輩の奥さま方とお話しができ、井戸端会議ができ、楽しめています。 日曜日、祭日はお魚釣りか、土曜日の夕方から日曜日にかけてマージャン遊びも加わりますから、けっこう同じ年頃の兄弟5人で遊んでます。 浜町小学校2年、3年、4年と大きくなってゆく過程で、親しいお友達がたくさんでき、アパートにもお友達を連れてきて、裕美ちゃんのお誕生会をします。 又、裕美も、お友達の家に行って、交友をしていますから「誕生パーティのお祝、何買おうか?」なんてことしょっちゅうです。 それに裕美の誕生日、真一の誕生日、そして私、いつもケーキがあって楽しめています。 そのような若松の10年間、いよいよ若松にお別れすることになります。 裕美ちゃん、4年生のときです。 懐かしい若松文化体育館は、歩いて15分ほどの恵比須神社そばにありましたから、映画とか影絵映写会など子供達と良く行きました。 住いが変わるので、裕美が通う浜町小学校に行きます。 転校手続きとか、市役所に行くことなど、全て私がするのです。 近くに市役所があって便利でしたから、何でも一人でする事を覚えます。 裕美ちゃんの志井小学校 時代 1984.4.~1987.3. 小学校4年生の夏に、志井小学校に転入した裕美ちゃんは、明るく元気の良い性格で活発な女の子でした。だから早く、この学校でも、お友達ができたらイイね、が親の想いでしたが、最初はちょっと、つまづいたようです。 担任の矢野先生は、裕美のあだ名を「夢見る夢子」とつけられ、ちょっと問題がありました。 少しアクションを求められたかも知れませんが仕方ありません。 けれども同じ希望ヶ丘町内から通う○○ちゃんのお友達も出来た頃、子供会のバレーボールチームにも入会して、少々ガンバッていました。 5年生になるころには、真一も志徳幼稚園に通いますから、ますますお姉ちゃんらしくなり、お友達も増えてきました。 又、小学校の活動にもかなり熱が入ってきたようで、私もPTAなどで、かなりサポートします。 裕美ちゃんが引越して一番嬉しかったこと、それは自己の勉強室が貰え、ベットまであることでした。 このことが一番嬉しかったようです。 誕生会も毎年して、私も協力して美味しいお料理を作ります。 クリスマス会や、それぞれの誕生会には、いつもケーキと、ご馳走は我が家の伝統みたいなものがありました。 母も元気ですから、ちょくちょく長崎県大村市にも良く遊びに行くようになります。 こんなホットなライフスタイルもお父さんのおかげ?かも知れません。 エピソード① 矢野先生のこと エピソード② 志井小学校、音楽会で大阪へ。 エピソード③ 修学旅行のサポート エピソード④ PTAのこと。バザーのこと。運動会のこと。 エピソード⑤ 希望ヶ丘町内でバレーの選手。 エピソード⑥ 裕美ちゃんの 志徳中学校時代 1987.4.~1990.3. ちょっと体重が増えてきた年頃の裕美ちゃんは、目が大きくて面長の顔立ちは、しっかり者。 成績は中の上ぐらいで、もう少しお勉強して北九州大学に入れるように勉強!! と、パパがうるさく迫ります。 それで中学に入ったら早速、塾通い。 ハイレベルな教育パパ。 一方では釣りキチであり、真一のサッカーの応援で忙しい毎日。 その中でも裕美ちゃんのお勉強に色々口うるさい!! ようです。 そんなライフスタイルでも、皆でお魚釣りや、長崎大村市や、お母さん(母)と一緒に杉ノ井パレスなどは、しょっちゅう行く家庭派です。 お友達も小学校から続いた瞳ちゃん、双葉ちゃん。 中学でもお友達が増え、活発に遊べる女の子。 成績もかなり良くなっているので、頭のイイのはママ譲りとか?言うパパです? エピソード① 塾通い。 エピソード② 仲良し5人組 エピソード③ 先生のこと。PTRのこと。運動会。修学旅行のこと等。 エピソード④ 進学のこと。 裕美ちゃんの 小倉南高校時代 1990.4.~1993.3. 通学が家から30分ほどの学校で、3年間で2~3度しか欠席(休みなし)は、凄いと先生がホメてくれました。 成績は、この学校でも100~150ごろと安定しており、かなり優秀。 しかし国公立大学を目指すにはちょっと難しそう。 私立なら簡単に通れるのですが、親の懐事情は厳しい。 もう少し成績が良かったら借金でもして、行かせたい大学。 お父さんの夢は、どちらかの子供が、学校の先生になってくれるのが夢でした。 しかし、ちょっと無理がありそうで、3年間なんとなく終了し、難しい就職であっても、小倉北区の船舶会社の事務員で通う事になりました。 そして、ひょんなことからまさかの進学は、裕美の友達の誘いから発展したものです。 エピソード① エピソード② 裕美ちゃんの イギリス留学、スクール時代 1994.5~1996.10 学校を卒業して1年余り、会社とアルバイトまでしてイギリス留学という離れ業をやってのけた裕美ちゃんには、少々私達は驚きました。 裕美ちゃんの、お友達の○○さんと一緒に、その学校に入学する分けですけが、親は全く知らない、子供任せの雲をつかむような出来事なんですね。 少々のお金を裕美に持たせますけど、やっぱりイギリスのライフワークは大変のようでした。 それでも2年間のお勉強を終え、無事、卒業証書を貰って帰ってきたとき、私達はホッとしたのでした。 エピソード① エピソード② |
洋子ママの子育て日記 真一 編 パート 2 長男、真一の誕生から志徳幼稚園 1980.6.10.~1987.3.20 真ちゃんの志井小学校時代 1987.4.5.~1993.3. ![]() ![]() 真ちゃんの志徳中学校時代 1993.4.~1996.3. 真ちゃんの九州国際大学付属高校 1996.4.~1999.3. |
2025.1. リニュアルオープンしました皆さん お元気ですか、お電話下さい musick リヴー・イエスタデイ(カーペンターズ)21 |
令和7年より 「上瀧勇哲のホームスタジオ2」125リンク5300pを配信中です |
1975.1. ユーミン誕生から嫁ぐ日まで
1980.6. 長男真一に寄せる親心は開花するか
2008.10.9. ミータン誕生から孫の時代へ
ペンネーム 大和三郎丸 (上瀧勇哲)&洋子ちゃん |
孫.ミータン. 2009.誕生から |