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     2025より上瀧家のルーツを探すPART3」ご覧下さい
      1950年生まれの上瀧勇哲が、ご先祖さまのルーツを探す、公開しています。このページは パート 2 です。

1981.5. 佐賀県小城市永福寺にて父、上瀧松義、母、ヨシエ

                   案内人 大和三郎丸 (上瀧勇哲) 


浄土真宗という信仰に熱心な父が、祖父の地を訪問し、勇哲、哲郎に先祖の地をしっかり教えておきたかった!!


佐賀県小城市、祖父 長二郎ゆかりの地、永福寺は1980年ごろに訪問した古い禅宗の寺だった


上瀧家のルーツを探す

上瀧とは「じょうたき」と読みます。略字で「上滝」と書いても同様なあつかいで通用します。
その上瀧家先祖の多くは佐賀県佐賀市から大和町、小城市にまたがる広い区域にあり、日本国内でもここだけに集中してありますから、この地から上瀧家のルーツが始まったと思われます。
その地から私の祖父、長二郎さんが北九州市小倉にやって来て私達のルーツを築いてくれたので、当然行き着く先は佐賀県ということになります。

私が30才になったころ父、松義が「勇哲にも一度、先祖が眠る地を教えておかないけん」ということで、弟の哲郎と母の4人で祖父、長二郎が生まれ育った佐賀県小城市小城町の寺参りと、父の従兄である上瀧○○さん家に行った事から、上瀧家のルーツ探しが始まることになります。




昭和56年5月、父と母、弟の4人で最初の訪問地である、従兄の上瀧○○さん宅へ行きます。
この方がお寺さんの案内から食事までお世話頂き、父はこの家で二泊します。
かなり交友があったようですが、この方の息子さんが、かの有名な競艇選手、上瀧和則さんであることを後で知ります。
しかしながら、この時はまだ無名の選手でした。その後、この地を訪れることはありませんでした。そして……




上瀧家のふるさと


私達兄弟が生まれ育った北九州市小倉、三郎丸。本籍地は三萩野の地名ですが、父がこの地で事業を起こす場として住いを兼ねた家を購入してから始まります。 
その前までは三萩野女学園上の貸家に住み、祖父母、姉、妹と一緒に住んでいたそうです。
その新しい家で私達兄弟が生まれ育ちますが、なに分、戦後から復興の時代でしたから父、母は大変ご苦労されたようです。
その中で歩いて5分の三郎丸小学校、20分ほどの足立中学校に通うことになりますが、その頃の街並は田ンボが多く、牛が田を肥やし、水田には自然の生き物がウジャウジャ居た、のどかな風景がありました。
そんな環境の中で飛び跳ねた時代から社会人となっていく分けですが、周りの大人達から私達兄弟は随分可愛がられた気がします。
貧乏な生活をしていたから余計に人の情を多く感じた頃だと思います。



祖父、上瀧長二郎、お爺ちゃんのこと

私が生まれる前に亡くなった方で、カネヨおばさんが言うには、若いころ陶芸師であり、仏師として日本全国を旅した方とも聞きました。

その祖父の実家は、後で知る佐賀県小城市ですが、長二郎さんは若い頃この地を去り、旅して、行き着く先が北九州市小倉であり、この地で内村チエさんと知り合い、結婚して父が生まれ、カネヨおばさんが生まれました。ただ病気がちで若くして亡くなりますから、父や、おばさん(妹)が一生懸命努力して薬を買って与えたこと。又、父も小学生のころからデッチ奉公ということも聞いていますから、戦時中は随分苦労したようです。

いずれにせよ私達、上瀧家のルーツは佐賀県小城市の牛津村にあることは間違いありませんが、そのことを良く知る方が居ません。手がかりは昭和56年5月に行った、あの方の家、そしてお寺しかありません。その上で、長二郎さんが何処で生まれて、その父、母、親戚、兄弟がどうなっているのか、私は知りたいのです。


父、上瀧松義の誕生から、その生き方

チエお婆ちゃんのお腹で6人の子供が生まれ、その5番目が父、松義となります。
戦時中であったり、女手で子供を育てる中で大変な苦労があったようです。詳しいところは内村家のページで紹介しています。

チエおばあちゃんは上瀧長二郎さんと再婚し、父、松義が生まれます。その妹はカネヨおばさんで、益田家に嫁ぎます。
父の義理の兄となる内村久雄さん、白石キクエさん、末松なみえさん、うめ子さんの6人は、それぞれのページで紹介しておりますが、6人の子供を育てたチエおばあちゃんは、父が最期まで看取り、私が小学校3年生のとき亡くなりました。

そんな優しい父が生まれ育った環境は非常に厳しいものがあります。
大正から昭和にかけての時代は、国内外の政治が乱れ、戦争が多発し、厳しい生活が子供達にも及んだ時でもあります。

幼子を6人育てるチエおばあちゃんは、松義を石屋に奉公させます。そのときの苦労話を耳にタコができるぐらい父から聞かされました。それは毎朝5時に起きて石磨きから職場の掃除。学校から帰っても沢山の雑用があり、厳しい、辛い思い出がたくさんあったようです。

それと、もう一つ辛いことは右目が見えないことです。幼いとき病気で失明したのです。でも、そのおかげで兵隊に行かなくてすんだのでした。

その後、畳職人として弟子入りし、一人前になります。郡児島定二さんとか、島添さんは兄弟弟子で仲の良かった方でした。
そして30才ごろで母、ヨシエと見合い結婚することになります。その翌年の2月、私が小倉守恒で生まれることになります。昭和25年のことです。

その後、家を購入したり、畳床の機械を買ったりして、職人さんが5〜6人居ましたので、かなり頑張ったようです。しかしながら高金利で金を借りていたので、返しきれず倒産となります。
ここで母方の牛島栄六おじいちゃんが、家だけは買い戻してくれますが、この頃より段々と自営業がカラ廻りするようになります。

 

そんなとき家の近くに浄土真宗の教えを広める滋賀県大津市から仏師がやって来ました。そして大きな家を建てます。その仏師が畳の注文をしてくれますし、色々な表具の注文をもらい、仕事を重ねている内、父がその仏師と親しくなり、浄土真宗の教えをその道場で聴くことになります。当然、母や私達も通うようになりました。
10年ほどして、そのお寺、道場が北方に移転しますが、この辺頃から父と道場門下生とのいざこざがあり、段々と道場から遠ざかってゆく姿を見ますが、それでも毎日仏壇の前でお経を唱える父がいました。

母は肺結核という病気で、国の保護を受けながら入、退院の繰り返しです。
私が小学校から中学、高校までずーっと父が自営業をしながら家事をし、私達兄弟がそれを補ってきました。
私達が働きだして家計が良くなり、母も病気が治り幸福な生活がしばらくありました。

ある日、私が妻にする洋子ちゃんを紹介しますと、親父が驚くような視線で奇麗な洋子ちゃんを見てくれたことを想い出します。
その後、脳梗塞で倒れ半身不随になり入院。7年間病床で過ごし、洋子ちゃんが見守る中去ってしまいました。
父の葬儀は行橋市宮ノ杜に家を建てた弟、哲郎と一緒に住む母の元で葬式をします。母が気に入っている正山寺 住職の生土昌行さんにより安らかに阿弥陀様の元へ行かれます。76歳でした。




父は畳の芸術家、趣味はお念仏を頂く信仰

父が一番自慢していたこと、それは畳仕事です。
畳職という地味な手仕事なんですが、昔から鍛え上げられた技術は、他の職人さんよりズーッと上手で「松義さんの仕事は気持ちがこもって素晴らしい」と評判の畳職人さんでした。しかし、畳1枚仕上げる工程に時間をかけ、念入りにしても1枚いくら?と、なると、上手でも上手でなくても値段はそう変わりません。良い仕事をしたからと言って、たくさんお金を頂ける商売でなかった為、親父はいつも損ばかりしていました。「正直で生真面目な性格は商売人にはなれない」そう母が言っておりましたが、とうとう最後までこの仕事を続けました。
そんな親父の性格を半分くらい私が背負っておりますが、父の生真面目さと一つのことをやり遂げるガンバリは凄いものがあります。

親父の趣味であり、生甲斐となったのは阿弥陀様を信じる信仰でした。40才の頃から始めた念仏に、命をかけるぐらいの意気込みを感じたのは私だけではありません。

朝と晩、お経を唱える父の声はすごく迫力があります。その辺のお寺さんのお経よりズーッと力強く、念仏の一言々々に気合が入り、唱えている父に「何かにとりつかれている」そんな気さえしました。

しかし、お経を上げているときとは対象的に、食事のときは優しさに満ち溢れており、毎日、毎晩、子供達に仏様のお説教をするのですね。正直、ウンザリするぐらいで、半分も聞いていませんけど、父は一つも怒りません。
豊かな生活ができなかったのは全て父に責任がある分けではありません。一生懸命生きていた時代の中で、上手に世の中を生きてゆく「知恵」がなかったから、そう想います。



父、松義がくれた大切なもの

「子供は宝、子供の幸せは親の幸せである」と父は言います。
父との会話の中では、必ず仏様のお話しが入ってきます。人を信ずるとか、仏の道とか、信仰の力とか、お釈迦様や念仏、中国の偉いお坊さんの話し、色々。これ等は全て父が信仰をしている道場(お寺)で聴いてきたことを教えているのです。偉い先生のお話しを子供に聞かせることで、自分自身の勉強をしていたのかも知れません。
その心を優しく感じていると、父の人柄が良く分かります。

父から貰ったものはたくさんありますが、子供を叱らない、決して子供を殴らない人でした。人から好かれ、多くの人が我が家に出入りします。父の人間性は、優しさとお人好し、そして仏様を信じる迷いの無い心でした。それがゆえに生活苦もありましたが、その分、私達子供が力強く育ったと想います。

晩年は脳梗塞で半身不随になり、7年間入院生活をしました。母が毎日のように看病に行きましたけれど、私達はそれに甘えてほとんどしてやることがありません。寂しい運命であったことを偲びます。
上瀧松義、改名 釈義円、平成10年12月14日 亡


母、上瀧ヨシエのこと

母の生まれ育った環境は、牛島家のサイトで紹介しておりますが、父、松義と結婚して、しばらくは幸福であったと想います。しかし、戦後から復興の時代で世の中みんな貧乏でした。
そんな中、働き盛りの父は畳職として事業を起こします。当然母も一緒になって、朝早くから夜遅くまで仕事に精を出します。畳屋さんはイグサ床を何重にも重ね合わせて厚さ8pほどの床を作りますが、この作業が大変なんです。
母も一生懸命父の加勢をします。
床が出来たら職人さんが表イグサを張り、ヘリという生地で両端を留めて、畳一枚がやっと出来ます。ただ、その畳の重たいことです。そんな重労働があり、母は病気になります。肺結核といって、私が小学校低学年から8年間、入退院の繰り返しでした。もちろん父も家事をしながら子供達の世話をしてくれました。母も元気があるときは、トウフ屋さんのバイトや色々なアルバイトをして家計を助けます。そのことを子供である私達三兄弟はつぶさに見てきました。

そんな母の趣味は踊りでした。夏の盆踊りがきっかけで、町内会から趣味のクラブにも参加して、老人会の慰問から学校、PTA等の行事参加をしていました。
そして私達子供が大人になり社会に出ると、やっと暮らしが楽になり、母の病気もほぼ完治され、北九州市や小倉の街の色々なイベント行事の踊りには必ず母が居ました。

そんなとき父が脳梗塞で倒れ、入院します。7年間の病院通いがありましたけれど、病気一つせず元気な母が弟と共に行橋市に引越し、ここでも「英」という踊りの会に入り、町内から校区、行橋市等の祭りから、年に一度の行橋市民会館で英の発表会等ありまして、けっこう充実した楽しい一生を終えたと想っております。
母の生き方は、友を多く作ることが上手で、何事も真っすぐに生き、身体を張った言葉の中で、その重さを伝えながら友と一緒に遊ぶことが上手であったと想います。

行橋市宮ノ杜に引越して8年余り、今川の正山寺さんと密接なお付合いを頻繁にしながら、松本のおじいちゃん、山田のおばあちゃん、英先生や町内会、老人会、たくさんの人々から愛され、私達家族が見守る中、優しい笑顔で去っていかれました。

上瀧よしえ、改名   80歳、平成17年7月12日 亡





内村チエ(祖母)と、内村家のお話し

私が9才のころ亡くなったチエおばあちゃんは、孫(私)を抱いて、手をとって片野の浄土真宗 正円寺や泉寺に良くお説教を聴きに行ったそうです。
法話を聞かせてくれる仏師の中で、小手川勇哲さんというお坊さんが大好きで、そのお坊さんの名を頂いて勇哲と名付けられたと親父から何度も聞かされます。

内村チエおばあちゃんは、山口県大島郡大島村の内村家、長女として生まれますが、次女のクラ、三女のカネの三姉妹であったため、長女チエは18才のとき婿養子をもらうことになります。

詳しく説明しますと、内村家は代々の庄屋さんで米問屋をしていました。
明治時代は米や醤油、塩、漬物まで幅広く営み豪氏であったことを聞きます。
その内村家に婿養子に来る久助さん家は船問屋。今で言う貨物船を3〜4ハイ持ち、広く商いをしていた貿易商で、その次男か三男?の久助さんと結婚します。そして4人の子供が生まれました。

@長女のキクエおばさんは、白石武雄(小倉北区)に嫁ぎます。
A長男の久雄さんは内村家を継ぐことになります。(小倉北区三郎丸)
B次女の、なみえさんは末松岩之助さん(八幡東区)に嫁ぎます。
C三女うめ子さんは

どうして北九州市にやって来たか分かりませんが、その久助さんは子供達を置き去りにして、どこかの街で再婚したと聞きます。(益田カネヨおばさんの話)
その後、縁あって上瀧長二郎(私の実の祖父)と内村チエさんが結婚します。(再婚)

Dそして私の父、上瀧松義が生まれます。
E妹にカネヨさんが生まれ、後に益田 勝さんに嫁ぎます。

古い戸籍には山口県大島郡大島(瀬戸内海の周防大島)から代々継がれる内村家の長女、内村チエとして生まれ、昭和34年、小倉三郎丸で82才の生涯を閉じたのです。

◎内村クラ(チエ祖母の妹で次女)さんのことは分かりません。
◎内村カネ(チエ祖母の妹で三女)さんは、北九州市小倉で林 千代吉さんと結婚します。林家は代々継がれるこの地の名家です。材木問屋をしておりました実家があり、カネおばさんは幸せに暮らしていたと聞いております。


北九州市の内村家は絶える

私が知る内村家の後継者はいません。もしかしたら次女の内村クラさんのご先祖が周防大島で内村家を継いでいるかも分かりません。カネヨおばさんが話すには、山口県大島の米問屋等、広く商いをしていた内村家祖父は、たくさんの証文貸付金を全て破棄し、多くの人々にほどこした!! そうです。内村家、上瀧家の人々を見ると分かりそうな気がします。
小倉、内村家のお墓は小倉北区○○寺にありますが、私が知らないもっと古い過去がありそうです。その歴史を知るには、まだまだ時間がかかります。


内村チエ(祖母)お婆ちゃんの子供達

@長女の内村キクエさんは、北九州市小倉三郎丸で白石武雄さんという軍人さんと結婚します。
5人の子供ができ、長男の白石武治さんと私は義理の従兄弟になる方でお元気でお過ごしです。
同じ町内である為、子供の頃の私は随分キクエおばさんから可愛がられたものです。

A長男の内村久雄さんが本来、内村家を継ぐことになりますが、結婚されて間もなく奥さまが亡くなられ、光弘さんを養子にされます。光弘さんは従兄弟にあたりますし、同じ町内でもありました。
結婚されて女の子が三人できましたが、光弘さんが早く亡くなられ、奥さま、子供さんとも実家の佐賀に帰られ、消息が途絶えました。

B次女の内村ナミエさんは、北九州市八幡東区の末松岩之助さんと結婚され、太一郎さんと妹さんである○○さんが生まれますが、この方が全日本ミスユニバースの九州代表に選ばれた大変奇麗な方と親父が自慢していましたが、若くして亡くなったそうです。

C三女の内村うめ子さんについては分かりませんが、近い親戚筋に有松さんの名がありますから、こちらの方と思っております。

D久助さんと結婚した内村チエ(祖母)さんには、上の4人の子供がいましたが、ある日、久助さんが家を出てしまいます。その後、上瀧長二郎さんと知り合い、再婚することになります。そして私の父、上瀧松義が生まれます。

E二年ほどして上瀧カネヨさんが生まれます。カネヨさんは小倉造兵所に勤めていた時、憲兵をしていた益田 勝さんと知り合い結婚しますが、こちらは益田家のサイトで紹介しています。

F前夫の内村久助さん、再婚した上瀧長二郎さんとの間に6人の子供を育てたチエおばあちゃんは、大変苦労されましたが、晩年、孫の私や哲郎を連れてお寺参りを良くしたことを聞きます。奇麗で優しいおばあちゃんでした。


内村家、上瀧家に関わるお話し

ここでのお話しは父、母はもちろん私の記憶と白石武治さん、益田カネヨおばさんから多く聞いたことを記載しています。

小倉北区三郎丸の上瀧松義家の周りには多くの親戚が居ます。みんな血の繋がりのある方ばかりでしたが、親父の偏屈、と、優しさ、人の良さが裏目にでて、この地を去ることになりましたが、私にとっては故郷です。今、三郎丸は都市の一環となり、多くの親戚縁者がこの地より分散しました。寂しくなりましたが時折この地を訪れ、昔を想い出すことがあります。

昔、内村久雄おじさんが毎晩のように風呂に入りに来ます。勇哲、哲郎、周作と可愛がってくれ、良くお小遣いをくれました。「ワシが死んだら後のことを頼むゾ!! 」と言って去ってしまいましたが、内村のおじさんの後を継ぐ方が居ません。

白石キクエおばあちゃんが言います。松義さんには三人の男の子が居る「子供は宝ジャー」と言って、貧乏を励ましてくれたことを度々子供ながら聞きます。あの大声を張り上げるおばさんは、いつも私達にお小遣いをくれ、優しくしてくれました。これも父が真面目で、親を大切にしていたことを兄姉が認めた証拠でもあります。

内村久雄おじさんが口癖のように言っていました。「死ぬ前に一度、大島に行ってみたい!! 」と。
あの元気なとき連れて行ってやればよかった、と悔やまれます。

その気持ちを、いつか兄弟で周防大島に行き、何処か分からない内村家祖先のお墓参りをしたい、おじさんの好きだった「栗まんじゅう」を持って。


父の自慢話し

父が元気でいたころ、仕事を終え、夕食のちょっとの酒をたしなむとき、オレは女にモテた!! とか、上瀧家はみんな男ぶりとか、美人ばかりであったとか。それで勇哲と哲郎は母に似て、周作が少しオレに似ているとか、色々。
今考えると上瀧家の人々はみんな四角顔で目が二重。それに、みんな声が大きい。父だけおとなしい性格で優しかった。そんな父を、もっと大切にしたかった。

もしこのサイトを見て「内村家のことを教えていただける方」がありましたら是非お電話下さい。こちらから伺います。.fax0930−24−0199です。
よろしくお願いします。


あとがき 2008.1.1.

人生は長くて短いものです。「光陰矢のごとし」とは、ときの流れの速さを言いますが、私も残りわずかです。その中で今、私ができる事は、ご先祖様を敬う心です。上瀧家のルーツ、祖先とそれに繋がる親戚関係をきちっと整理し、次の若い世代にその足跡を残しておきたいのです。
その上でご恩報謝の心でご先祖様に感謝し、今こうして幸せであることを祈り、次の世に進められたらの願いです。




上瀧家のルーツを探る
佐賀県小城市、上瀧長二郎、先祖を探す旅


私が住んでいる行橋市には上瀧という名の方殆どいません。NTTの電話帳に記載されているのは弟と他に2件だけなんです。そのもう一件の方は、佐賀県出身と聞いています。
以前住んでいた北九州市100万人の中でも、上瀧という名前の方は電話帳だけでも、ほんの数件しか居ません。それぐらい珍しい名前なのです。
しかし、ご先祖さまが集まる佐賀県に入ると、佐賀市内だけで数百件。大和町や小城市になると随分多く居ますから、同じ名前のお店や広告、看板を見るとちょっと安心します。そのような佐賀県にある上瀧長二郎おじいちゃんのルーツを探すことにしました。

そもそも昭和56年5月に父と母に連れられて訪問した親戚家と、お寺に行けば良いことなのですが、その後、全くお付合いなし。父の資料とか手紙、連絡先もありませんから、さて困りました。
それで私の記憶だけで行ってみることにしました。

平成18年2月の日曜日です。
朝早く、洋子ちゃんの愛車、ホンダライフはツタエ母さんが買ってくれたピカピカの新車です。カーナビもあるし、テレビもあるからルンルン気分で、九州道から鳥栖 I Cで下車し、国道34号線沿いに行けば、JR肥前山口駅があって、そこら辺の人とかタクシーの運ちゃんに聞いたら分かると思っていました。
ちょっと時間をかけて、のんびり国道34号線と並行に走る電車道に肥前山口駅を見つけ、ここからちょっと山手の上にお寺があるはず、と、思っていましたから、いきなりお寺探しです。
1件、2件……5件、10件ぐらいお寺を見つけては、自己の記憶と重ね合わしたり、そのお寺に入って、ちょっと聞いたりしましたけど分かりません。

とにかく、お寺の墓地にある上瀧のお墓を探すことなんですよね。一つ二つある上瀧のお墓も、お寺が違います。住職に聞きヒントをもらい、再び聞いた先のお寺に行く。又聞いて、次のお寺へ。
佐賀県にはたくさんのお寺があり、浄土真宗でも東、西、大谷派とか、禅宗、臨済宗など色々あって、すごく入り混じりお寺の宗派って複雑なんですよね。そこで、とうとうこの日は諦めて帰宅しました。




上瀧家の探訪と牛島ご本家を訪ねて

平成17年7月、母、上瀧ヨシエが亡くなって次の年小林 昭さん(母の弟)が佐賀、牛島ご本家に赴き、まさかの香典を頂いてきます。私としては、ほとんど縁のない本家筋ですけど、母の従兄弟があっちこっちに居たご本家筋ですから、当然、昭さんはこちら側とのお付合いがあるのでしょうか、
そこで母の三回忌を終えた後、佐賀の牛島家に訪問することにします。
昭おじさんが書いてくれた住所だけですが、便利なカーナビで探して行きます。そして兄弟筋の方と面会できて、まずお寺さんをご案内してもらいます。

30数年前、母と一緒に行ったときは、あの大きな記念碑のような墓石は無くなっていましたが、新しく置き換えられた大きなお墓にご挨拶し、お寺内にある牛島ご先祖さまの納骨堂をはじめ、仏さまにご挨拶して少しばかりのものを置いてきました。
そして、ご本家となられる大きなお家に行きますと、すごく心地良いおばさまの案内で、ご先祖さまの仏間に通され、洋子ちゃんと一緒に手を合わせ、これまでのお付合いがなかったことのご無礼と、祖父 栄六おじいちゃんのことなど、お話しを聞いてもらいました。又、帰りぎわに手作りのオミヤゲまで頂いて、すごーく感謝することばかりでお別れをしました。その後、三度ほどこの地を訪れ、お寺に、お参りしています。


三度目の佐賀、上瀧家の探訪

平成20年9月の日曜日。
そのような母方の佐賀市、牛島家と隣り合わせの小城市の上瀧家は何かの巡り会わせがあるのでしょうか?、まだ、上瀧長次郎おじいちゃんのご先祖さま地を探し当てていませんから、それで今度は三度目となります。このときは弟と三人で行くことにしました。
弟は昔、父、母と一緒に行ったことがあるので、彼も詳しいことは知っているつもりでいます。それで洋子ちゃんと哲ちゃん二人が、プリウスのカーナビをいじくりまわして、あっち、こっち、お寺さん探し。小城市から外れて長崎県まで入ってしまうこともありましたが、結局この日も問題のお寺さんは見つかりませんでした。




平成21年2月22日(日)曇のち雨、佐賀県牛津、永福寺

朝から雨、時々強い風が吹いてイヤなお天気ですが、洋子ちゃんのホンダライフで出発します。この車は、洋子ちゃんのお母さんが買ってくれた新車で、保険からカーナビいっさい全てを付けてもらっています。
そんなナビに佐賀JR牛津駅にセットして出発は午前8時前。
いつものようにホットコーヒーやら菓子等をたくさん持参しています。途中、古賀SAでお土産を5箱購入して、もしかの時の準備をしておきます。

 

佐賀大和ICで降りて、国道34号、牛津駅交番におもむき永福寺を紹介してもらいます。すると私の住所録にも永福寺のお寺さんの名があります。これは三年前、訪問したとき牛津駅前の写真館さんで、上瀧長二郎写真の裏に書いてある古い住所が戸川で、近辺の浄土寺のお寺の紹介が永福寺だったのです。このとき訪問したときは留守で、お墓はあまり見てなかったのです。それにこのお寺、数年前にも来たことがありますから、今日で四度目。もしかしたら五度目の正直になるかも知れません。

  

国道34号線に新しくバイパスが出来たそばの永福寺さんは臨清宗のお寺です。
広い敷地に小さな小山があります。その山の斜面にあるお墓のなかに上瀧家の墓があります。記憶の中のイメージで、お寺と、お墓を重ね合わせてみますが、まだ分かりません。大切なのはイグサ屋根のお寺に、正面に石の門柱が二つ並び、その奥に家門があることなんです。古い写真を見ながらウロウロしている洋子ちゃんが、このお寺に間違いないと言います。

そして雨の中、小さな小山に登って30数年まえを想い出します。イメージと違う中で、上瀧家の墓を三つ、四つ確認して、お寺の玄関ブザーを押しますと、洋子ちゃんと同じ年頃の坊守さんにご挨拶し、ことの成り行きの話しに、手元の写真を見ていただいて、はっきり確認させて頂きました。
「相違ございません。20数年前、お寺全てを建て替え、墓地を整理して随分変わりました」と聞きます。
お寺の裏に国道が出来て、玄関が裏に変わったそうです。

 

そして、坊守さんがお寺の本堂を案内していただきます。中央のお釈迦様、左右のだるま大使さま、観音さま等を一つ一つ説明いただき、その下で手を合わせます。そして別館に案内されて、若住職とたくさんなお話しを聞き、温かいお茶にお菓子を頂いて、ホットな気分で良かった、良かった。祖先の親戚縁者が、この地にたくさん居ることを知って、ただ感謝。
後日、もう一度、行橋銘菓とご仏前をお届けして、これからもよろしくお願いしますとして、お電話を頂きました。



佐賀県神埼、牛島家先祖お墓参り平成22年2月22日

父と母の先祖が、わずか50q離れたところにあることで、毎年、母のおじいちゃんの先祖が眠る寺にお参りします。
こちらも禅宗寺のお寺ですが、坊守さんがあいにく不在でしたので、お墓参りをさせていただいて、ご近所に住む実家にあたる牛島家と、その兄弟親戚家に行き、簡単なご挨拶をいたします。
雨の中わざわざということでしたが、このような触れ合いもきっとおじいちゃん、おばあちゃん、父、母も喜んでくれるでしょう。
父、母が出来なかったことを私達がして上げられること、そしてこのようなお付合いの仕方も北九州市、行橋市の上瀧家と佐賀との繋がりを、子供達、親戚方が、深く繋げてくれることを願って、まだまだ私達はガンバリます、としておきましょう。




平成22年8月盆、父、松義妹、カネヨ叔母さんと永福寺お参り

上瀧長二郎お爺ちゃんの子、カネヨおばさんと勝義さんをお供にして、佐賀、上瀧家ご本家のお墓参りをすることになりました。
もう90才になるカネヨおばさんは、まだ一人で買い物にも行けるぐらい元気がありますけど、いつも付き添っている勝義さん(長男)と二人暮らしなんですね。それで年に数度、お伺いしてお話しを聞いたり、仏間に手を合わせてお付合いしています。そんなとき、上瀧長二郎おじいちゃんの写真を頂きましたので、その御礼で佐賀の上瀧家のお墓参りと、お寺参りをしてもらうつもりでご案内をしました。

8月の盆休みを利用して、ホンダステップバンで、ゆったり安全運転して、わずか3時間ほどで永福寺に到着します。
杖をついてのお墓参りですが、すごーく嬉しそうです。「勇ちゃんが、洋子ちゃんが!! 」と口癖のように誉めてくれるおばさんに、永福寺住職、坊守さんとゆっくりご挨拶して、先日の御礼も込めて、少々のオミヤゲを持参します。勝義さんが、だい奮発したようなご厚志を添えて、阿弥陀様、お釈迦様に手を合わせます。

今日はお盆ということで、たくさんのお参りの方が居ましたが、特別扱いでおもてなしを受けた私達。
北九州市から上瀧家、そして、これからのお付き合いも含めて繋がるご先祖さまの地。そのような温かいこの地に来て、カネヨおばさんは大満足しています。長二郎さんが生まれた地であり、おばさんの故郷でもあるからです。







2012.1.上瀧家のルーツを探す、まとめ

最後まで読んでくれて、大変ありがとうございます。
私達人間の、それぞれのルーツを突き詰めますと、いずれ一つになります。

人類はみな兄弟!! なんでしょうが、やっぱし、それぞれのご先祖さまをしっかり知りたい分けです。
特に私達のような、ありふれた家族には余計に知りたい。ちょっと傲慢なのかも知れませんが、このことを追求してゆく遊び心というか、面白さもあります。その上で、このことを親戚、兄弟がそれぞれにしっかり繋がってくれて、お友達が増えて、なにがしの交流があったら、もっと幸福になれる、そう想って上瀧家のルーツ探しをしています。

そして昔、お世話になった、ご親戚の皆さんにも、何かの形でお礼をしたい。お墓の前で手を合わせるだけですが、それでも自分の心で感謝の気持ちを伝えたいのです。
いずれ私も、みなさんのところに行きますが、私と妻が、兄弟が、残せることを、次の若い世代に受け継がれてゆけたら、もっと幸福になれる、そんな、つまらぬ事を楽しんでいます。

もし良かったら、お手紙だけの交流でも頂けたら幸です。
よろしくお願いします。
                                    2012.4.10. 上瀧勇哲、洋子





 


2010.8.13. 盆 福岡県行橋市宮の杜 実家(上瀧哲郎) 三兄弟家族で、ご先祖さま、阿弥陀仏如来(南無阿弥陀仏)へ 浄土真宗本願寺派、正山寺、生土昌行さまのお経をいただきました。

   




                      
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2017より上瀧家ルーツすPART3」ご覧下さい







上瀧家のルーツを探す 2
                                             祖先が眠る佐賀県小城市の旅 父が連れて行ってくれた街は今 私が知らない祖父はどんな人か 父松義の生き方その信仰心 上瀧家と、内村家のつながり 豪商内村家の衰退 上瀧家親族の年表

1950-2012
1950年生まれの上瀧勇哲が、ご先祖さまを探すルーツを公開しています

          案内人 大和三郎丸 (上瀧勇哲)